bbpersonalhistoryBの日記

脳梗塞患者入門中の毎日

痛みや苦しみは自分に所属しない。それならば自分はどこにあるか?どんなふうなのが自分と言えるか?

2/23(金) 朝ごはん

 

円覚寺坐禅会に参加したとき、座を組んでいると、足が痛い。強烈に足が痺れて、左右の足の合わさるところ、足首が折れそうで痛い。折れるなら折れればいいとばかりに、からだに力を込めたら、足首の痛みとそれを感じている、自分との間に距離が出来た。何だ!痛みは、「自分に属さない」ではないか。痛みはあるが、痛み自体は、自分では無い。驚きである。不思議である。禅宗の言葉を、借りれば、「悟」(さとり)であろう。痛みに囚われて振り廻されることが無い。この体験が大きかった。その後に自分が奪われて、円覚寺の境内一杯に広がる体験もあったのだが、「痛みは自分に属さないことに気付いた」体験は、その他の行法と合わさって、私にとっては、派手さはないが、からだを語る上で、貴重な体験となった。痛みに対して、痛みを責めずに、遠ざかるのを待つという態度が、自分のものになった。痛みに振り回されずに選択が出来る。ようになった。以来、正座なんて何時間でも出来るようになった。

痛みはそれにとらわらなければ、自(みず)から去って行くのである。考え方も大きく変わった。痛み=自分という考え方からの「開放」である。透明な風が吹き抜けたような、体験であった。

痛みに対して、部分的、意識的な囚われの態度からの全体的な身体の解放か?一挙に全体性を回復したと言うことか?点としての意識から、3次元としての意識の獲得?

身体は、ブラックホール(高密度)からコスモス(無限の広がり)へと開放される。自由と風。

 

 

2/23(金) 昼ごはん(GreenVoice食堂)

 

 

2/23(金) 夜ごはん