1/28(日) 朝ごはん
移動が気力を奪う話を書いた。
レッスンでは、距離というのは概念であって、本来そんなものの無い世界に、私達は生きている。
それを体験するのが、からだとことばといのちのレッスンだったことを思い出した。体操への考え方も変わった。立って歩き出すとき、自分から一歩前の床に足を運ぶと考えずに、床に体重をかけて足の裏に乗って、体重が崩れて前に前にと体重が流れ込んで行くように感じて見る。こちらからあちらへ行くのでは無い。自力で歩くというより、歩かされるのである。その時、前方の空間との距離がなくなり、空間に自分を押し込んで行くような空間と自分の間に有った距離感はなくなる。
体操の場合は自分でからだを動かしている努力感がなくなる。天井から下げた、鎖の末端を持って誰かが私のからだを回している感じである。自然と身体が整って来る。
このことは、わたしにとって酷く切実な捉え方である。移動や運動に努力のエネルギーが、必要なくなる。動いていて、楽である。
向こうに手を伸ばして、自分の体重を引き動かすのではなく、向こうから引っ張ってもらい移動しているように感じる。
1/28(日) 昼ごはん
自分が何かをするのではなく、誰かに何かをされているのだ。神さまが、何にでも手を貸してくれているのだ。
自分で成す!という考えが、苦しさの本だ。何もかも、神さまがやらさせてくれているのだ!だから、ありがとうm(_ _)mなのだ。
自分でやってればありがとうなんていらない。
グランドの木が陽射しを浴びてむくむくと膨れ上がって行く。小さな揺れは衣を脱ぎ捨てるような。太陽に届くような。大きさの落ち着きの中に、背の低い周りの木々を引き込んで行く。グランドは春の世界へと、塗替えられて行く。太陽を中心にした、新たな宇宙の発進だ。もう後戻りはできない。しない。私も新しくならされて行く。止まっていたものが動き出したようだ。辛かったけど、良かった。
私が南無をすれば、介護者(家族)も南無になって行く。ありがとうございます。これが、南無観世音菩薩の慈悲の世界。
杖歩行が怖いと思うのは、まだ単座出来ていないからかも知れない。単座の安定無しに立つことはできない。
1/28(日) 夜ごはん
美味しいロールキャベツだった!キャベツの皮が、箸ですっと切れる。こんなキャベツは、初めて食べた。H川さんのお土産。奇跡のキャベツ。明日はポトフが食べられる。どんなポトフになるのかな?美味しいだろうな!
単座の安定無しに立位に入って、杖歩行わするのは、転倒への自殺行為だ。まず単座が安定するまで、単座の練習をして、それが安心して出来るようになったら、立位の練習、安心して立てるようになったら、やっと杖歩行の練習。その逆の順番は有り得ない。GreenVoiceでの転倒事故の原因は単座の安定を見ずに、杖歩行を解禁したことにある。先立つものに心を砕け、結果は、自ずから生まれるだろう。の意味はこういうことだ!怖さを感じることは、たいせつなのだ。まだ手前の練習作業が、出来ていない証拠を身体が語っているのだ。事故の責任はリハスタッフにあつたのだ!恐怖心を植え付けられただけで損をした気分。恐怖心は大切だ。安心なやり方を繰り返して怖さを溶かして行こう。
怖さを無理矢理閉じ込めて、意志で誤魔化していくようなやり方では、絶対駄目だ!怖さには必ず理由があるはずだ。身体に貞くのだ。これでいいですか?と。