bbpersonalhistoryBの日記

脳梗塞患者入門中の毎日

お天気回復した。昨日とは、別日みたいだ。先ず何より身体が変わっている。天国と地獄とは、このことを言うのだろう。

2/26(月) 朝ごはん

 

弱さを認めること。

 

弱さを認めることがたいへん。

弱さの反対は、強さではない。情けない自分を認めることだろう。強さというのは、自信であり、弱さの否定である。自信とは、自慢であり、他者より強い、良く出来る有能である、秀でていると言うことで、他者に比べて、形作られる。

赤ん坊の無能さが求められる。赤ん坊は、等しく無能である。存在が、無能を全肯定している。彼らには、否定ということは有り得ない。否定は、自己の否定であり、生命の否定である。生きて行くには、自己の無能を受入れざるを得ない。というより、無能有能の区別の無いものとして、

赤ん坊に比べて自分を観る

2/26(月) 昼ごはん

 

私の話は自慢話でしか無い。GreenVoiceの隣の爺さんの話と一緒だ。学歴と本の話(知識)の自慢。人の評価が欲しくて話している、その実は、偉く孤独なのだろう。心の中を冬の風が吹き抜けている。余りの寒さに、人の温かみを求めている。しつこい。付き合ってくれる理由は、仕事としてであろうと、付き合いであろうと、どうでも良い。私にそっくりだ。彼の姿と私のすがたは、そっくりだ。だから私は彼を見ているといらつくのだ。

自慢話は、自己評価が必ずついてまわる。自我の壊れるのを防ぐために、自分のことばに自分自身の評価を例えば竹内どの出会いや、野口の出会いの話など話題性のあるものを、持ち出し、相手の注意を引こうとする。例えば学歴や、知識の出処の、話は自慢話として、相手に承認されやすい。総理大臣を知っていると言えば、相手は興味を持ってあれこれ訪ねて来るだろう。人を貶して、貶める会話もどこか自慢話に似ている。これも話す特定の相手が居ることは、確かだ。そのうえ、その相手を同類の仲間として承認する。ヨダレを話題にして対象を貶める。その場の誰とも異なることで、共通の価値世界を承認する。そのうえ対象となる、ヨダレを垂らす人より、自分たちが一段も二段も高い所に位置することを確認する、これも孤独感に耐えきれないから、人とは異なる集団を作り、安心感を確保しようとしているのだ。自慢話の集団版だが、個人の場合と、とても似ている。

相手への承認欲求。自分と同じ興味を、持っている。

自分を認めて欲しいから、相手に話しかける。自慢話をあれこれと手を加え、相手にわかるように、話しを整理して行く。分かるだけではなく、相手が感動して、心が動き出すような内容のものになるよう、ホラを吹いても、素敵な話になるように工夫を凝らす。ウソをつく。

自分は、価値ある存在である。あれこれと、自分の持ち物を見せびらかす。自分の持っているもので、これまで他者から価値があると思われているものを持ち出す。相手の興味に答えることが大切だ。相手に受けることが第一だ。自分の言いたいことなど二の次だ。ウソを交えたりもお構い無し。説明に嘘が入り込む。それでも、相手が興味を持てば良いのだ。冷たく拒否されるより、心が痛むことはない。レッスンでは、実技のときだけ、孤独の道を選ぶことが出来た。説明の虚しさをどんどん離れて行くことができたのだろう。Zoomレッスンの成立は、真実の言葉によって成り立っていた。

何かと言うと、格好を付けたくなる。その格好を付ける癖が人間関係を、妨げているのでは、無いか?娘と話す時には、人生の『先輩』の顔をしたくなる。そのための意見を述べる。家内には、私の確かさ、間違いの無さを伝えたくなる。解釈の素晴らしさが、ご意見が、筋の通った話をしたくなる。私から見た人生の問題点の解釈の素晴らしさを、その正しさ、考えの仮説の素晴らしさを分かって欲しい、認めてほしいのだろう。正しさなんてものは、ないのだ。

赤ん坊には、良しと悪しの区別はない。良し悪しの区別が無くてはならないのは、自慢を、するときの自分である。本来良し悪しは一つのものから始まっている。

人に自分と言う価値を認めさせようとするときだ。自分の味方を、1人確保して、孤独を消したいからだ。自他の間に、価値あるものと見做されるものを入れたくて、悪し者という、考えを作り出すのだ。赤ん坊にとってそれは、不快なもの。不快にさせるもの、自分を縛るもの、不合理な言葉。自分の勝手を阻むもの。自由の否定者であろう。

 

2/26(月) 夜ごはん